2009年06月17日
RICOH GR1 PHOTO DATA 1 CD-ROM
自分で撮影した写真のデータを保管しておくためのCD-ROM のレーベル面とそのパッケージのデザインについてのウェブポートフォリオを Atelier TLIS 内にアップしました。
パッケージデザイン フォトデータCD "RICOH GR1 PHOTO DATA 1"
詳細はリンク先を御覧下さい。
2009年06月01日
FF Special CD
4月末より取りかかっていた、Bar Future Flight 4th Anniversary Special Thanks CD のデザインについてのウェブポートフォリオを Atelier TLIS 内にアップしました。
Bar Future Flight 4th Anniversary Special Thanks CD のデザイン
詳細はリンク先を御覧下さい。
2009年05月13日
ちいさな未来飛行
ここ1ヶ月ほど、某所より依頼されたパッケージデザイン作業にかかり切りになっていました。
CDジャケットのレーベル面とそのパッケージのデザイン。CDジャケット/レーベルとしてはあまりみかけないコンセプトのデザインです(ほぼ同じようなコンセプトの商品は既に多数存在はしていますが、私と同じコンセプトを割と表面的に解釈したものが多いように思います)。
記念品のCDなので、市販はされません。
昨晩、納品に行き、自分が作ったばかりのCDジャケットが、棚に置かれて、大きなスピーカーで再生されているのを、心地好く体験してきました。
やはり、自分の作った物が高く評価してもらえて、人に感動と喜びを与えている場面を見るのは、何物にも代え難い快感です。
私はお世辞や社交辞令で口先だけの好評価されることを好みません(そういう評価をされても、私自身が甘やかされて堕落していくだけで、より発展的な将来には結びつかないので)。だから、私がその作品を作ったということを知らないままにそれを手にした人たちが、まず最初にどのような反応を示し、評価をしてくれるのかが、一番気になるところです。
なるべくその場面に立ち会えるといいな、と思っています。良い評価も悪い評価も、自分がさらに先に進んでいく際のエネルギーを与えてくれるものだから。
CDジャケットのレーベル面とそのパッケージのデザイン。CDジャケット/レーベルとしてはあまりみかけないコンセプトのデザインです(ほぼ同じようなコンセプトの商品は既に多数存在はしていますが、私と同じコンセプトを割と表面的に解釈したものが多いように思います)。
記念品のCDなので、市販はされません。
昨晩、納品に行き、自分が作ったばかりのCDジャケットが、棚に置かれて、大きなスピーカーで再生されているのを、心地好く体験してきました。
やはり、自分の作った物が高く評価してもらえて、人に感動と喜びを与えている場面を見るのは、何物にも代え難い快感です。
私はお世辞や社交辞令で口先だけの好評価されることを好みません(そういう評価をされても、私自身が甘やかされて堕落していくだけで、より発展的な将来には結びつかないので)。だから、私がその作品を作ったということを知らないままにそれを手にした人たちが、まず最初にどのような反応を示し、評価をしてくれるのかが、一番気になるところです。
なるべくその場面に立ち会えるといいな、と思っています。良い評価も悪い評価も、自分がさらに先に進んでいく際のエネルギーを与えてくれるものだから。
2009年04月25日
Bar Moonlit Shiner 公開
昨年末に自宅内に設置したバーカウンターに対してひっそりと Bar Moonlit Shiner と名付けたまま、ウェブ上では特にそれに言及せずに放置状態になっていたわけですが、今般、Bar Moonlit Shiner のウェブサイトをデザインし、公開を行いました。ちなみに、Movable Type を使用したブログ形式です。
私はここ数年「バー」に興味を持って色々なバーを体験してきましたが、それは、「バー」という空間が、私の考えている「芸術性」の根本である「素材(モチーフ)の特徴を見抜き、それを最大限に活かす形で構成し、新しい価値を作り出していく」を実現しているといえるからです(実現できていない店も多いですが)。
自宅内のバーカウンターですから、特に営業許可を取ったわけではないのですし、取るつもりもありません。しかし、現在 Bar Moonlit Shiner(=自宅内バーカウンター)では、「飲と食」に関する試行錯誤が、日々行われています。営業しているわけではない、というのはある意味最大の強みでして、自分の感覚に従って、自分の感性に合っているものだけを選びながら、「飲と食」に関わるさまざまな要素を楽しんでいくことが出来ています。
ウェブサイトとしての Bar Moonlit Shiner は、ブログ形式ということもあり、個人的な「飲と食」に関するデータベースも兼ねています。自分の気の向く時に、自分勝手に情報をつけ加えていきます。コメントやトラックバックは受け付けていませんが、これは私のウェブサイト運営の方針です。馴れ合いは好みませんし、近年はコメントやトラックバックはスパムの原因になるだけですから…。
2009年04月14日
ジーザス、こいつは芸術だ!(2)
この作品は、イエス・キリストが十字架にかけられる前の7日間を描いた作品です。
映画はイスラエルの砂漠にロケバスが登場するところからはじまり、全て撮影を終えてロケバスが引き上げるところで映画が終了しています。普通の映画は、撮影のセッティング場面や撮影風景などは映すことはほとんどしないといってよいでしょう(『理由(大林宣彦監督)』など、全く存在しないわけではありませんし、『キャノンボール』やジャッキー・チェンの映画のようにNG集としてエンディングに使用される場合はあります)。
そしてそのロケバスから表れる出演者は全て、当時流行していた服装をしています。多くはヒッピー風の服装で、ユダ役の Carl Anderson は、大きく胸の開いた(正直、胸から腹まで見えている)唐草模様装飾の真っ赤なジャンプスーツを身に付けています。彼らはバスから出てくるとすぐに化粧を始め、ミュージカルの準備をし始めるのです。
しかし、彼らは化粧は行うものの、そのヒッピー風の服装やジャンプスーツを着替えようとはしません。通常の映画であればイエス・キリストの生まれた当時の時代考証を行い、それらしい衣装を調達するのですが、この映画ではそれを一切行おうとしません。それどころか、映画で出てくるお城は「工事用の鉄骨」ですし、市場ではポストカードやマシンガンが取引されています。ひどいものになると、最後の方の場面、死んだはずのユダが降臨するのですが、ユダが空から表れる際に、クレーンが照明でむき出しになってしまっています。時代考証としてもめちゃくちゃだし、クレーンが照明の光で照らされるなど、通常の映画ではもってのほか、とされるあまりにも稚拙なミスだと言えるでしょう。
その他にも、カメラワークや場面構成などの稚拙さも目立ちます。全編がミュージカルシーンで構成されていますが、ただ単に歌っている姿をずっとカメラが写しているだけで、カメラアングルやカット割りなどの工夫がほとんどなされておらず、その視点で鑑賞するとがっかりしてしまう作品です。例えば『アイドルワイルド』などのほうが、ミュージカルシーンの作り込みに関しては徹底的に構成が考えられ、カメラワークの工夫もなされていると言えます。
しかし、コンセプチュアル・アートとしてこの作品を鑑賞すれば、これらのマイナス面は、大して意味をなさなくなるか、逆にプラス面に転じていくことも可能となるのです。
しかし、これらの映画撮影の際のセオリーを敢えて打ち破っていることが意図的になされているのだとしたら、この作品を解釈する視点もまた、違ってくるといえるでしょう。
ただし気をつけなければならないのは、この映画は「映画撮影の際のセオリーを敢えて打ち破る」ことをコンセプトにして通常では行わないような手法を敢えて採っているのではなく(つまり、「普通の人がやらないことをやる」ということが発想の中心となった、稚拙な発想の現代アート作家がよく採るセンスの無い天の邪鬼的な手法ではなく)、「等身大」をキーワードに徹底的な撮影が行われた結果、通常の映画撮影のセオリーが崩されているのだ、ということです。
ですから、私にとって『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、映像作品や舞台作品ではありません。これは、時代を超えるコンセプチュアル・アートなのです。
神格化された存在を、当時の若者が、自分たちの価値観をむき出しにしたままで「演じる」。それは、熱心なキリスト教信者によっては冒涜なのかもしれません。
しかし、「スーパースター」を「神格化された存在」という意味で捉え、あらゆる人が「現代(当世)」に生きているという事実(その時代の人間にとってはその時代こそが「現代」であり、未来の人間から見た場合のみそれが「過去」になり、過去の人間から見た場合にそれは「未来」になる)を合わせて考慮すれば、「現代(当世)の若者が神格化された存在を演じる」ことは、どの時代においても当たり前のようになされていることに気づくはずです。
つまり、イエス・キリストは2000年前、「現代」に生き、その時代においても、神格化されていたはずなのですから。それは、映画の最後の方でユダがイエスに「なぜお前は20世紀に生まれなかったんだ?」と問いかけていることに象徴されているのです。
例えば、江戸時代、徳川家康はほぼ神格化された存在でした(現に、日光東照宮に祭られているわけです)。しかし、徳川家康が江戸幕府を開く前、だれが徳川家康が神格化までされる存在になると予想できたでしょう?もちろん、三河の武家の出身ですから一般庶民(百姓)より身分が高かったとはいえ、やはり彼は(身分なりに)人間として扱われ、食べ、飲み、眠り、時には尻をはしょって逃げ出すような全くの「人間」だったはずです。
それが戦国時代という時代の性質もあって、だんだんと力(この場合は政治力と軍事力)を得て、彼は神格化されていきます(半ば意図的になされたように思いますが)。その当時の人の中には、それに違和感を覚えながらも、政治力と軍事力において屈服していた人間も多かったはずです(いわゆる外様大名など)。
そのような事例は、歴史上のあらゆる場面で存在します。ですから、「神格化された存在(キリスト教の世界観においてのイエス・キリスト)を当世風に(「現代」のやり方で)演じきる」というコンセプトさえ守り抜けば、あらゆる時代で『ジーザス・クライスト・スーパースター』は成立しうるのです。
『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、もともと舞台作品として成立し、その舞台は、未だに様々な劇団が演じているようです。ちなみに日本でも、劇団四季や宝塚で演じられています。私は、『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、舞台や映像という手法以外の表現手段でも、成立しうると考えます。つまり、「神格化された存在を当世風に(「現代」のやり方で)演じきる」というやり方がなされている限りにおいては。
ビートルズのジョン・レノンは1966年、「僕らはいまやイエスよりも人気がある(We’re more popular than Jesus now.)」という発現を行い、強い批判を浴びました。同じように、『ジーザス・クライスト・スーパースター』も、批評家からは絶賛される一方で、キリスト教の敬虔な信者からは強い批判を受けたようです。『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、1971年、舞台作品での上演が最初ということなので、もしかしたら、ジョン・レノンの発言にインスパイアされているかもしれません。
「現代」にしか、生きられない。それが我々人間の弱点ともなりえます。現代は、未来には過去となります。過去は、過去においての「現代」だったのです。しかし、その事実に気づかず、あるいは気づかないふりをして、ほとんどの人は常に「現代」に生き続けることを余儀なくされるのです。
私は『ジーザス・クライスト・スーパースター』を観て、「過去」「現代」「未来」というものが、大して代り映えのないものだということを、ビジュアル的に目の当たりにせざるをえなかったのです。
映画はイスラエルの砂漠にロケバスが登場するところからはじまり、全て撮影を終えてロケバスが引き上げるところで映画が終了しています。普通の映画は、撮影のセッティング場面や撮影風景などは映すことはほとんどしないといってよいでしょう(『理由(大林宣彦監督)』など、全く存在しないわけではありませんし、『キャノンボール』やジャッキー・チェンの映画のようにNG集としてエンディングに使用される場合はあります)。
そしてそのロケバスから表れる出演者は全て、当時流行していた服装をしています。多くはヒッピー風の服装で、ユダ役の Carl Anderson は、大きく胸の開いた(正直、胸から腹まで見えている)唐草模様装飾の真っ赤なジャンプスーツを身に付けています。彼らはバスから出てくるとすぐに化粧を始め、ミュージカルの準備をし始めるのです。
しかし、彼らは化粧は行うものの、そのヒッピー風の服装やジャンプスーツを着替えようとはしません。通常の映画であればイエス・キリストの生まれた当時の時代考証を行い、それらしい衣装を調達するのですが、この映画ではそれを一切行おうとしません。それどころか、映画で出てくるお城は「工事用の鉄骨」ですし、市場ではポストカードやマシンガンが取引されています。ひどいものになると、最後の方の場面、死んだはずのユダが降臨するのですが、ユダが空から表れる際に、クレーンが照明でむき出しになってしまっています。時代考証としてもめちゃくちゃだし、クレーンが照明の光で照らされるなど、通常の映画ではもってのほか、とされるあまりにも稚拙なミスだと言えるでしょう。
その他にも、カメラワークや場面構成などの稚拙さも目立ちます。全編がミュージカルシーンで構成されていますが、ただ単に歌っている姿をずっとカメラが写しているだけで、カメラアングルやカット割りなどの工夫がほとんどなされておらず、その視点で鑑賞するとがっかりしてしまう作品です。例えば『アイドルワイルド』などのほうが、ミュージカルシーンの作り込みに関しては徹底的に構成が考えられ、カメラワークの工夫もなされていると言えます。
しかし、コンセプチュアル・アートとしてこの作品を鑑賞すれば、これらのマイナス面は、大して意味をなさなくなるか、逆にプラス面に転じていくことも可能となるのです。
しかし、これらの映画撮影の際のセオリーを敢えて打ち破っていることが意図的になされているのだとしたら、この作品を解釈する視点もまた、違ってくるといえるでしょう。
ただし気をつけなければならないのは、この映画は「映画撮影の際のセオリーを敢えて打ち破る」ことをコンセプトにして通常では行わないような手法を敢えて採っているのではなく(つまり、「普通の人がやらないことをやる」ということが発想の中心となった、稚拙な発想の現代アート作家がよく採るセンスの無い天の邪鬼的な手法ではなく)、「等身大」をキーワードに徹底的な撮影が行われた結果、通常の映画撮影のセオリーが崩されているのだ、ということです。
ですから、私にとって『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、映像作品や舞台作品ではありません。これは、時代を超えるコンセプチュアル・アートなのです。
神格化された存在を、当時の若者が、自分たちの価値観をむき出しにしたままで「演じる」。それは、熱心なキリスト教信者によっては冒涜なのかもしれません。
しかし、「スーパースター」を「神格化された存在」という意味で捉え、あらゆる人が「現代(当世)」に生きているという事実(その時代の人間にとってはその時代こそが「現代」であり、未来の人間から見た場合のみそれが「過去」になり、過去の人間から見た場合にそれは「未来」になる)を合わせて考慮すれば、「現代(当世)の若者が神格化された存在を演じる」ことは、どの時代においても当たり前のようになされていることに気づくはずです。
つまり、イエス・キリストは2000年前、「現代」に生き、その時代においても、神格化されていたはずなのですから。それは、映画の最後の方でユダがイエスに「なぜお前は20世紀に生まれなかったんだ?」と問いかけていることに象徴されているのです。
例えば、江戸時代、徳川家康はほぼ神格化された存在でした(現に、日光東照宮に祭られているわけです)。しかし、徳川家康が江戸幕府を開く前、だれが徳川家康が神格化までされる存在になると予想できたでしょう?もちろん、三河の武家の出身ですから一般庶民(百姓)より身分が高かったとはいえ、やはり彼は(身分なりに)人間として扱われ、食べ、飲み、眠り、時には尻をはしょって逃げ出すような全くの「人間」だったはずです。
それが戦国時代という時代の性質もあって、だんだんと力(この場合は政治力と軍事力)を得て、彼は神格化されていきます(半ば意図的になされたように思いますが)。その当時の人の中には、それに違和感を覚えながらも、政治力と軍事力において屈服していた人間も多かったはずです(いわゆる外様大名など)。
そのような事例は、歴史上のあらゆる場面で存在します。ですから、「神格化された存在(キリスト教の世界観においてのイエス・キリスト)を当世風に(「現代」のやり方で)演じきる」というコンセプトさえ守り抜けば、あらゆる時代で『ジーザス・クライスト・スーパースター』は成立しうるのです。
『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、もともと舞台作品として成立し、その舞台は、未だに様々な劇団が演じているようです。ちなみに日本でも、劇団四季や宝塚で演じられています。私は、『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、舞台や映像という手法以外の表現手段でも、成立しうると考えます。つまり、「神格化された存在を当世風に(「現代」のやり方で)演じきる」というやり方がなされている限りにおいては。
ビートルズのジョン・レノンは1966年、「僕らはいまやイエスよりも人気がある(We’re more popular than Jesus now.)」という発現を行い、強い批判を浴びました。同じように、『ジーザス・クライスト・スーパースター』も、批評家からは絶賛される一方で、キリスト教の敬虔な信者からは強い批判を受けたようです。『ジーザス・クライスト・スーパースター』は、1971年、舞台作品での上演が最初ということなので、もしかしたら、ジョン・レノンの発言にインスパイアされているかもしれません。
「現代」にしか、生きられない。それが我々人間の弱点ともなりえます。現代は、未来には過去となります。過去は、過去においての「現代」だったのです。しかし、その事実に気づかず、あるいは気づかないふりをして、ほとんどの人は常に「現代」に生き続けることを余儀なくされるのです。
私は『ジーザス・クライスト・スーパースター』を観て、「過去」「現代」「未来」というものが、大して代り映えのないものだということを、ビジュアル的に目の当たりにせざるをえなかったのです。
2009年04月03日
ジーザス、こいつは芸術だ!(1)
Jesus Christ Superstar
仕事場ではここ数年、私は本来の英語講師としての業務のほかに、映像科の講師として視覚表現や小論文の講評にも携わっています。
そんな関係もあって、先日、仕事場の映像科の授業の一環として、「JESUS CHRIST SUPERSTAR
(ジーザス クライスト スーパースター)」という映画を観ることになりました。
1973年制作のミュージカル映画なのですが、190年代後半から1970年代前半に隆盛を誇っていたヒッピーの若者たちがわざわざイスラエルまで出かけていって、ほぼ「そのままの服装で」撮影を行ったという映画。演技の場面がほぼ全くなく、全編歌と踊りで構成されています。
イスラエルの砂漠の中にある遺跡に、なぜか工事現場の鉄骨のようなものでやぐらが組まれています。そしてロケバスが現れるところから撮影が始まり、バスからヒッピーの若者たちがわらわらと出て来て、舞台セットを組んだり、化粧をしたりして準備をします。そしてイエス役の若者を囲んで、ミュージカルが開始。黒人(Carl Anderson
)のユダが、岩砂漠の山頂から遠くの遠くのイエスに向かって、疑問を(歌いながら)投げかけるところから歌が始まります。
二つばかり参考の映像を載せておきますが、はっきりいってつっこみどころが満載です。
これらの映像を見ると、もう笑うしかない、というのが正直なところ。しかし、私は映像科担当講師として、この映像を鑑賞させたことを、彼らの実力に結びつけてやらなければならなかったのです。次回、この映画がいかにコンセプチュアルに作り込まれ、芸術作品として優れているものなのかを、解き明かしていきたいと思います。
仕事場ではここ数年、私は本来の英語講師としての業務のほかに、映像科の講師として視覚表現や小論文の講評にも携わっています。
そんな関係もあって、先日、仕事場の映像科の授業の一環として、「JESUS CHRIST SUPERSTAR
1973年制作のミュージカル映画なのですが、190年代後半から1970年代前半に隆盛を誇っていたヒッピーの若者たちがわざわざイスラエルまで出かけていって、ほぼ「そのままの服装で」撮影を行ったという映画。演技の場面がほぼ全くなく、全編歌と踊りで構成されています。
イスラエルの砂漠の中にある遺跡に、なぜか工事現場の鉄骨のようなものでやぐらが組まれています。そしてロケバスが現れるところから撮影が始まり、バスからヒッピーの若者たちがわらわらと出て来て、舞台セットを組んだり、化粧をしたりして準備をします。そしてイエス役の若者を囲んで、ミュージカルが開始。黒人(Carl Anderson
二つばかり参考の映像を載せておきますが、はっきりいってつっこみどころが満載です。
これらの映像を見ると、もう笑うしかない、というのが正直なところ。しかし、私は映像科担当講師として、この映像を鑑賞させたことを、彼らの実力に結びつけてやらなければならなかったのです。次回、この映画がいかにコンセプチュアルに作り込まれ、芸術作品として優れているものなのかを、解き明かしていきたいと思います。
2009年03月30日
Joseph Joseph 曲がるまな板 Chop 2 Pot
以前、ジョセフジョセフ(Joseph Joseph)のフルーツ/野菜カッティングボードを紹介しましたが、今回もまたカッティングボードの紹介です。
自分はこの10年以上、ずっと木のまな板を使用してきました。昨年末にバーカウンターを自宅内に制作してから、調理スペースが増えたことにより、格段に料理をする機会が増え、調理場自体にも色々特風を重ねるようになりました。
この数ヶ月、いろいろとキッチンツールやバーツールなどを探して回っているのですが、数日前に、ジョセフジョセフのちょっと変わったまな板を購入しました。
写真左は、食材を切った後に、鍋等に食材をどのように移すかの実例です。ちゃんと柄もついているので、非常に移しやすいといえるでしょう。右側の写真は、カラーバリエーション。私の購入したのは白ですが、これは、バーカウンターの天板の色が白ですので、それに合わせました。
さて、キッチンツールで大切なのは、使用感。デザインやアイデアが良くても、使用感が悪ければ、その価値は減ってしまいます。
食材を切った後に、そのまま折り曲げて鍋などに移せるというのは、非常に便利で、調理の手間が省けます。調理は時間との闘いですので、少しでも余計な手間が省けるというのは大きなプラスだと思います。
ただし、その機能性が、使用感を減じてしまう面もあるというのは、否定できない事実です。このまな板は折り曲げ機能が付加されているために、まな板としては非常に薄く、また、この製品のアイデアと機能性の要の部分である折り目の部分が切るときの邪魔になる場合があるので、単独でまな板として使用すると、食材が切りづらいというのが、正直なところです。特に、シンクの角の部分で食材を調理している方には、このまな板だけでは不安定で、逆に使いづらさの方が目立ってしまうと思います。
しかし、通常使用しているまな板を下に敷いて使用してみたところ、それらの問題点はかなり改善されました。今まで使用していたまな板も捨てずにとっておいて、その上にこのまな板を敷いて調理すれば、アイデアのプラス面を活かすことができるでしょう。
まな板自体を折り曲げてしまうというアイデアは素晴らしいと思います。補助的に使用するまな板という位置づけで使っていれば、かなり有効に使用することが出来るのではないでしょうか。
2009年03月15日
GR DIGITAL Gallery NT 公開
今まで RICOH GR DIGITAL で撮影してきた写真のまとめギャラリーをデザインしました。以前、写真ギャラリーは Smoke Stings Studio 内のカテゴリーだったのですが、今回の写真ギャラリーはアトリエタリエス内のカテゴリーに分類されていまし、今までの写真ギャラリーもそのうちアトリエタリエス名義に変更を行います。
また、それに伴い、アトリエタリエス内のウェブデザインのページも更新を行いました。
今回の写真ギャラリーはMovable Type を応用したものですが、いわゆるブログの体裁をとっていないのが特徴です。今後、写真作品はこちらのギャラリーにアップロードしていきますので、よろしくお願い致します。
2009年03月06日
あのころ知った羽根飾り
自分の未来への踏み台は、自分の過去の中にしか存在しない(そして、現在は未来の過去となる)。
生徒に対して、自分はよくそんなことを言う。
今日は、久しぶりに昔録画した「シラノ・ド・ベルジュラック
高校2年生の時に私は、この作品を高校の文化祭のための演劇作品として脚本化した。もうずいぶん昔の記憶なのですっかり忘れていたのだが、映画を観て思い出した。
ちょうど、「シラノ・ド・ベルジュラック」が映画化
今考えてみると、私がずっと大切にしていたいと思っているものが、最もわかりやすいかたちで、しっかりとこの作品の中で描かれていることに気づく。
たぶん18年前、岩波文庫の「シラノ・ド・ベルジュラック」
生きていれば色々なものを手に入れるけれど、それはどんどん消えていってしまう。どんどんどんどん消えていって、最後に残るものは何だろうか?と考えたその答えの示唆が、しっかりと示されているのだ。決して奪われることのないものとして。
自分にとっては、「シラノ・ド・ベルジュラック
2009年02月17日
【インテリア】アートの世界に生きて(自宅内バーカウンター制作コンセプト4)
私が美術業界に関わって既に10年以上経ちました。元来美術系ではない私でしたが(どちらかと言えば音楽系)、私はその間に、自分の仕事上の必要性もあって、さまざまな美術の要素に関わることを積極的に行い、「作品制作」と呼べる行為も(少なくとも一般の人たちに比べれば)、数多く行ってきております。大したレベルの作品が制作できているとは思いませんが…。
アートという言葉が現在の意味の「アート」として使われるようになったのは、人類の長い歴史を考えると、ほんの最近のことです。原初のアートとされているものの多くは単なる呪術の一様式ですし(「使用」目的を持った創作物、つまりデザインに近い)、西洋絵画や彫刻の多くは、元来権力者や宗教の庇護のもとに、正確で細密な描写力を求められてきたものでした(制作者の内的世界の実現を主とせず、依頼によって制作するという意味では、職人に近い)。
アートが現在使用されている「アート」の意味として使用されるようになったのは、テクノロジーが発達し、芸術家(アーティスト)が受け持っていた多くの部分を様々な機器で代用できるようになってきてしまったからです。
単純な例を挙げるならば、カメラです。カメラの出現によって、具象系の芸術家たちは壊滅的な打撃を受け、ただ単に正確で細密な描写力を求めるやりかたでは立ち行かなくなってしまいました。だからこそ、自らの内面や世界観の実現を旨としたり、目に映る形や色をそのままの形や色として捉えないことにより、テクノロジーで実現し切れていない分野へと歩みを進めていったわけです。
その後、アートは「アート」として様々な分野へと分化していきましたが、基本は変わりません。近代以降のアートはずっと、制作者が自己の内面(世界観)を追求し、素材(画材)を組み合わせてそれを表現する、ということに終始し、テクノロジーの発達がカバーしきれない世界を追求することになったのです。それが「人」としてアートを追求することであり、「個性」という言葉の正体でもあります。
そうなってくると、アートというものは、全ての人間の行為に及んでくるのです。「人」としての世界観と思考があり、素材を組み合わせて制作(創作)がなされ、「個性」が発現されていれば、それはアートとしての創作物だと言えるでしょう。
ですから私には、「先生や親は生徒や子供の将来を作り、会社員は社会と経済の流れを作り、子供たちは愛情と未来を作り、ありとあらゆる人間たちが何かを作っているように見えます」。そこに個性と世界観の発現があれば、私はそれをアートと認めるべきだと思います。現代アートの流れからいって、それは、何ら不自然なことではありません。
アートという言葉が現在の意味の「アート」として使われるようになったのは、人類の長い歴史を考えると、ほんの最近のことです。原初のアートとされているものの多くは単なる呪術の一様式ですし(「使用」目的を持った創作物、つまりデザインに近い)、西洋絵画や彫刻の多くは、元来権力者や宗教の庇護のもとに、正確で細密な描写力を求められてきたものでした(制作者の内的世界の実現を主とせず、依頼によって制作するという意味では、職人に近い)。
アートが現在使用されている「アート」の意味として使用されるようになったのは、テクノロジーが発達し、芸術家(アーティスト)が受け持っていた多くの部分を様々な機器で代用できるようになってきてしまったからです。
単純な例を挙げるならば、カメラです。カメラの出現によって、具象系の芸術家たちは壊滅的な打撃を受け、ただ単に正確で細密な描写力を求めるやりかたでは立ち行かなくなってしまいました。だからこそ、自らの内面や世界観の実現を旨としたり、目に映る形や色をそのままの形や色として捉えないことにより、テクノロジーで実現し切れていない分野へと歩みを進めていったわけです。
その後、アートは「アート」として様々な分野へと分化していきましたが、基本は変わりません。近代以降のアートはずっと、制作者が自己の内面(世界観)を追求し、素材(画材)を組み合わせてそれを表現する、ということに終始し、テクノロジーの発達がカバーしきれない世界を追求することになったのです。それが「人」としてアートを追求することであり、「個性」という言葉の正体でもあります。
そうなってくると、アートというものは、全ての人間の行為に及んでくるのです。「人」としての世界観と思考があり、素材を組み合わせて制作(創作)がなされ、「個性」が発現されていれば、それはアートとしての創作物だと言えるでしょう。
ですから私には、「先生や親は生徒や子供の将来を作り、会社員は社会と経済の流れを作り、子供たちは愛情と未来を作り、ありとあらゆる人間たちが何かを作っているように見えます」。そこに個性と世界観の発現があれば、私はそれをアートと認めるべきだと思います。現代アートの流れからいって、それは、何ら不自然なことではありません。









